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MT再考

いまの日本にはAT限定免許なるものがある。通常よりは若干安く取得できるために、ATしか乗るつもりのないものにとっては好都合らしい。しかし、誰が考えたのか知らないがなんとも愚かな免許である。


極端なはなし、自動車は特別のことがない限り全てMTにすべきで、ATなんかなくても良いとさえ思うときがある。MTの方が楽しいから…それもある、しかしMTを楽しいというのは結果論であって、MTの積極的に運転させようという意義が大切なのである。
普段運転中、ふとバックミラーから後続車の運転手を確認して背筋の凍ることがある。ふんぞり返って運転しているのはまだマシ、携帯電話をしているもの、酷いものになると漫画を読みながら運転しているものまでいる始末。当然のことだがATはこれらの行為を手助けするためのものではない。MTは確かにATよりも若干操作が難しいかも知れない。緊張もする。しかし、昔は皆がこれを操っていたのだし、運転するということは本来緊張しなければならないものではないのか。自動車の運転には必ず事故、つまり人の命がつきまとう。自動車を楽しいとか楽であるとか、ユーザーフレンドリーばかりを訴求するメーカーもメーカーだが、車を運転すると言うことはどういうことなのかはいつも気にしていたい。もし、MTならば、運転姿勢が悪いだけでてきめんに運転しづらくなるために、自然ときちんとしたドライビングポジションをとろうとするものだ。居眠りだってしにくいし、靴だってきちんとしたものにしようと思う。これらは結局、個人のモラルの問題なのかも知れないが、人は楽をしたがるものだし、ある程度の強制は必要だ。また、MTは機械をいたわろうという気持ちも生まれやすい。ミスをすれば同乗者に直接影響も出るために、運転技術の向上にも努めようと思い、丁寧に扱おうとするものだ。シフトショックを全く感じないATの技術は確かにすごい。しかし、機械とのコミュニケーションを断ってしまったらそういった機械に対する思いやりを失う。何度も言うように技術開発には確固たる哲学や感性が必要ではないのか。シーケンシャルタイプの簡易ATなどの開発をするのなら、MTにクリープモードを付加してやる機械を考えた方が良いかも知れない。今更なのだろうが、AT免許より、逆にMTドライバーを増やすためのMT優遇措置があってもいいくらいではないか。

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