ほうれんそうのお話

THE MASTERPIECE発表会の時にお話ししたのだが、緊張してなにやら訳の分からない話で終わってしまったほうれん草のお話をここでもう一回書いてみよう。


以前、実家から送られてきた手作りのほうれん草を食すことがあった。お浸しにして食べるときに、なにげなく取ったのが、ちょうど根っこの赤い部分で、ちょっとした苦みを頭で想像しながら口に入れたのだが、その甘いことに愕然とした。苦みやえぐみなど全くなく、調味料などは必要なし、自分が今までに食べてきたいわゆるほうれん草とは全く違う、これがホントの味なんだと。決して~産とかいうブランドではなくふつうに作ったものであることは確かなのだがそれでもこれほどの違いがあるとは。しかしその驚きはすぐに、いままで人間は一体何をやってきたのだろうか、という疑問に変わる。大手スーパーに並んでいるほうれん草は形こそ小綺麗だが、味は先のものとは別物で、調味料がないとまず食べづらい。調べればこの数十年で栄養価自体もかなり低くなってしまっているとか。これらの野菜や果物は皆病んでおり、それを食す私たちもすっかり病んでしまっているのではないか。経済というものに翻弄されて、ほうれん草とは名ばかりの別物をつくりあげてしまった…。しかし馬鹿な人間は品種改良なるもので、人工的に甘みをつけてみようとしたりする。例えば美味しいほうれん草は種類も違っていて、日本種が美味しいとされている。一般に出回っているのはほぼ西洋種なのだが、本来の味を大事にしようと言うより、美味しいものを科学的に分析して、美味しい成分を人工的に埋め込んでしまおうと考えてしまうようだ。このように技術を過信しすぎるととんでもないことになる。技術には磨かれた美意識から導かれた感性が必要で、それらはうまくバランスさせなければならない。
確かに技術開発は素晴らしいところもあるし、数知れない恩恵を受けているのも確かだ。スポーツカー開発ストーリーなどはなかなか感動するものである。しかし、人間はまた殺戮兵器も同じように一生懸命に作っているのである。感性の伴わない技術は非常に危険である。知能の伴わないものに兵器を持たせるようなものだと思う。マスターピースにも書いているように例えば環境の改善にはエコカー開発だけではいけない。ユーノス500のような存在もまた一つの素晴らしい方法であると思うのだ。

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