京都の旅ですが、蜃気楼での昼食後は南下して東福寺に向かいます。

慧日山 東福寺

東福寺や大徳寺、妙心寺など多くの塔頭をかかえるお寺は、それだけ個性的な庭を持っているので、“庭園の京都”の中でも効率的に楽しめるオススメの場所。中でも東福寺は応仁の乱の戦禍を免れた数少ないお寺のひとつで、伽藍面と呼ばれたその威容を今に伝え、庭園と同時に建築もそれなりに楽しむことができます。伽藍面とは禅寺に付けられたあだ名のようなもので、南禅寺を「武家面」、相国寺を「声名面」、建仁寺を「学問面」、妙心寺を「算盤面」、大徳寺を「茶面」などと呼ぶそうです。面白いですね。

京都の街はどうも東海道線が壁になってしまい、そこから南の地域は北と比べてかなり閑散とした印象があります。そのおかげでユックリ参拝できるわけですが、 そんな南の外れに位置したことが幸いしたんですね。とは言え、その東福寺も明治14年に痛恨の火災を発生してしまい、せっかく応仁の乱を免れた法堂と仏堂を焼失しています。

余談ですが、京都を分断している東海道線も、東福寺が火災に遭った1881年当時は大津から南側に大きく迂回し、今の名神高速と奈良線を合わせたようなルートを通っていました。1914年に新逢坂山トンネルが開通したことで今のルートに変更になりましたが、東海道線から東福寺の火災が見えていたことになります。

慧日山 東福寺

今回東福寺へは南側からお参りしようと、東福寺駅ではなく鳥羽街道駅で下車、まずは昨年に引き続いて光明院を訪れ、重森三玲の波心の庭を観賞したのちに東福寺入りしました。重文の六波羅門を通ってまず目に飛び込んでくるのが明治の火災からも生き残った三門です。三門は空門、無相門、無願門の三解脱門を表し、五間三戸を正式とします。法空涅槃に見立てられた仏殿に入る前に、悟りを開くために設けられているので、きっと大きければ大きいほど心理的効果があるんでしょうね。

1405年建立鵜と最古の三門であることもそうですが、数多くの特徴を備えています。まずはその建築様式で、重源の死とともに衰退したはずの大仏様を主体として作られており、三手先挿肘木などにその特徴が現れています。これは、東福寺創建時に指揮に当たった物部為国が東大寺系の大工であったことに加えて、東福寺の名前が東大寺と興福寺から1文字ずつとってつけられたように、東大寺に対する敬慕の気持ちが作用したのではないかと言われています。

大仏様バリバリの味気ない建築と比べて、禅宗様のエッセンスがちりばめられている分、日本建築的要素が加味されてうまい具合に仕上がっていると思います。太い柱もいいですね。ただ、当時発展していた折衷様に比べて構造が弱い面があったのか、1586年の天正大地震のときに軒が下がってしまったんでしょう、秀吉によって「太閤柱」と呼ばれる不粋なつっかえ棒がつけられてしまいました。これが明治の修理でのものなら、きっと昭和か平成に修理して撤去されていそうですが、秀吉が付けたとされるだけに取り除けないんでしょう。でもこれはない方が断然いいです。

慧日山 東福寺

三門の脇には明治維新まで使われていたと言う室町時代のトイレ、東司があります。そして奥には明治の火事のあと50年あまりのちの1934年に再建された昭和の法堂があります。以前仏殿があった場所に台湾から巨大檜を取り寄せ、仏殿を兼ねたものとして建立されたそうですが、禅寺のお堂はどうも鈍重な感じでもうひとつ好きになれないんです。自分に禅の心が足りないんでしょうか。でも、三門、仏殿、法堂が南北に一直線に並んだ禅宗伽藍の威容は見てみたかったですね。せっかく応仁の乱をくぐり抜けてきたのに、明治の大火が悔やまれます。

慧日山 東福寺

次回は、禅宗伽藍に続いて庭園ゾーンに入っていきます。

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