方丈のあとは、いよいよ東福寺で最も有名なスポット「通天橋」を渡ります。

東福寺 北ゾーン


通天橋は1380年に普明国師が修行僧の労苦を思って架けた…と言われていますが、いかに厳しい修行を積んでいるかをアピールしたがる禅寺には、ちょっと似つかわしくない理由かも。現在のものは1961(昭和36)年の再建で、橋脚部分がコンクリートのために造形の秩序が崩れてしまって残念ですが、紅葉の時期に押し寄せる人の数を思えばやむなしでしょうか。

その日本を代表する紅葉の名所も2月に訪れると画像のとおりで、せめて新緑の頃に見てみたいものです。この渓谷は洗玉澗と呼ばれていますが、室町以前は桜が多かったそうです。画僧の吉山明兆が絵の褒美として室町6代将軍の足利義持から望みを聞かれた時に「金銭的な望みはないが、境内に多くの桜を植えると後世に遊興の場になるため(修行の妨げになるため)、それを禁じて欲しい」と答えたため桜は伐採、かわりに楓が植えられたのだとか。不殺生戒と言いながら乱暴な禅僧ですね。結果的として屈指の紅葉の名所となっているうえ、桜に比べて観賞時期も長く、無駄に樹木の殺生をしてしまいました。

東福寺 北ゾーン

通天橋を渡った先にあるのは開山堂です。1823年再建の常楽庵と呼ばれる建物にパイルダーオンしているのが伝衣閣で、金閣、銀閣、西本願寺飛雲閣、大徳寺芳春院呑湖閣と並んで京都五閣のひとつに数えられています。こぢんまりとしていながらきれいにまとまった庭園は、背後の粋な建物に呼応してこれまでの境内とは打って変わったちょっと華やかな雰囲気を醸し出しています。訪れる人も少なめで、あまり取り上げられることもないようですが、東福寺ではここが一番好きな場所かもしれません。

東福寺 北ゾーン

 

東福寺 北ゾーン

ところで、広大な境内をもつ東福寺ですが、創建前にこの場所にあったのは925年創建と伝わる法性寺でした。平家物語や源氏物語が好きな方には法性寺の方がなじみ深いかもしれません。歴史上、お寺の盛衰は日常茶飯事ですが、なにも法性寺が衰退してなくなった跡地に東福寺ができたのではなく、まさに庇を貸して母屋を取られると言いましょうか、1236年の東福寺創建以降、母屋を召し上げられたり、伽藍を乱されたりしながら浸食され、ついには吸収されてしまったというわけです。乱暴ですね。

法性寺は当時鴨川があったとされる線路沿いに小さなお寺として残っていますが、個人的にはこの法性寺が、応仁の乱をかいくぐって、明治の火事も起こさずに今に残ってくれていたなら、奈良の諸寺院に負けない素晴らしい古刹になっていたと思うだけに残念です。でも逆に衰退して市街地化してしまっていた可能性もあるわけで、こうして昔をしのんだりできる分、東福寺として存続してもらって、あるいは良かったのかも。

京都五山と言う室町幕府が決めたお寺の格付け制度があったそうです。五山と言っても南禅寺が筆頭で別格とされていたため、それに続いて第一位から天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺となっていました。南禅寺から東福寺までは今でも有名ですが、「ん?万寿寺?」とここで引っ掛かります。

万寿寺も元は巨大なお寺で当初洛中にありましたが、1573年〜1592年の天正年間に罹災し、東福寺の北、三聖寺の隣に移転、その後廃仏毀釈の影響もあったんでしょうか、1873年開山を共にする三聖寺と合併したのち、1876年に東福寺に吸収され、万寿寺の名前こそ残っていますが、東福寺のいち塔頭となってしまいました。

旧法性寺には定朝風の阿弥陀如来坐像が何体かあり、のちにその万寿寺に1体を移したと言う記録があるそうです。以降万寿寺に祀られ、平安の香りを伝えていた阿弥陀様ですが、東福寺の明治の火災後、本尊をなくした東福寺は、万寿寺からこの阿弥陀様も持って行ってしまったそうです。じつに乱暴ですね。

現在法堂の東にある光明宝殿安置されているそうですが、残念ながら非公開。写真でみると実に良いお顔で一度は拝んでみたいものですが、どうせ公開されないのであれば、平安時代の藤原氏とのつながりが深い定朝仏だけに現法性寺に下げ渡してあげてほしいような気がします。歴史と言うのは、とかく乱暴なものなのかもしれないですね。